ひとりぼっちのカウボーイ - My Lonesome Cowboyとオタクの欲望
改めて村上隆の作品「My Lonesome Cowboy」を見てみると、これすごいなと素直に感心した。この作品、フィギュアという形で過不足なく「オタクの欲望」を表現しきっているのだ。
その欲望とは何か、というと、次の2点に集約される。
(1)性欲
(2)西洋的な強さ
(1)は見れば分かるだろう。股間から勢いよく放たれる白い液体は、どう見てもカルピスなどではないわけで。そして実際、オタク文化には性欲に根ざしたものが多い。
(2)には少し説明が必要かもしれない。ここで、単純な「強さ」ではなく、「西洋的な」という枕詞がつくのは、少年が金髪碧眼である点を鑑みてのこと。ただのこじつけじゃん、と思うかもしれないが、実際オタク的な「強さ」の表現とは、ほとんど「西洋的な強さ」の表現といっていい。
では、「西洋的な強さ」とは何か。といっても「西洋的な強さ」の実態はここでは問題ではない。問題なのは日本人から見た「西洋的な強さ」だ。それは、「強い個人」である。
実際、オタクカルチャーのヒーローは多くが「強い個人」である。というか、戦後日本のヒーロー全般が「強い個人」だといってもいい。
一方、本来の日本のヒロイズムは、個人としての強さのみを追い求めるわけではない。時代によって変遷はするものの、基本的に日本における「ヒーロー」というのは、優れた主君/優秀な家臣であり、集団の中の一要素としての能力が重視されているのではないか。もちろん、宮本武蔵のような「個人の人」もいるが、日本的ヒーローの主流は源義経・武蔵坊弁慶に代表される、「優れたチームプレイヤー」なのだ。
それに対して、オタクのヒーローは「強い個人」。チームに馴染めないアムロ・レイはその代表格である。もちろん「チーム」の活躍を描いた作品もあるが、それにしたって『ワンピース』のように、「強い個人」の集まりとしての「強いチーム」であって、チームが瓦解すれば価値を失う「チームプレイヤーとしては優秀だが、個人としては弱い」人物は、オタクのヒーローにはいない。
一人で戦争に勝ってしまうアムロ・レイがいい例だが、基本的にオタクのヒーローは、一人で何もかもやってしまう。それが、日本人の考える「強い個人」であり、「西洋的な強さ」なのだ。
これは必ずしも西洋のヒーロー像とは一致しない。アメコミのヒーローの強さは、大富豪のバットマンがいい例であるように、社会的な地位+個人の強さだ。映画『ハンコック』は、個人としては強靱だが、社会には居場所のないヒーローを描いている。西洋の「強い個人」は、社会的な地位とセットではじめて強くなる。社会という関係性が抜け落ち、個人としての能力だけが強調されがちな日本のヒーローとは、この点が異なる。
以上見てきたように、オタク的な「強さ」とは「個人としての強さ」のことだ。それがオタクの憧れの対象であったから、その欲望の表出として、個人主義のヒーローが生まれたのである。
そういうわけで、日本人のイメージする「西洋的な強さ」を考えてみると、My Lonesome Cowboyは非常によくできた作品。「ひとりぼっちのカウボーイ」とは、言い得て妙。髪はツンツンで強そうに見えるけど、体はいたって貧弱なのが面白い。
一方、My Lonesome Cowboyでは性欲は性欲としてしか表現されていないが、オタク的な性欲も歪な形をしている。それは、Hiroponで表現されているのだけど、これについては僕の考えはまだまとまっていない。